NITRO MICROPHONE UNDERGROUND の現場から現在地まで ── Vol.3
【ファッションブランド nitrow/nitraidの設立〜Nikeとのコラボレーション】
21世紀前後、渋谷宇田川町に足を踏み入れると、夏は〈Tommy Hilfiger(トミー・ヒルフィガー)〉や〈Ralph Lauren(ラルフ・ローレン)〉、〈NAUTICA(ノーティカ)〉といったブランドロゴがわかりやすく明示されたシャツが目立ち、冬は言わずもがな〈THE NORTH FACE(ザ・ノース・フェイス)〉や〈FIRST DOWN(ファーストダウン)〉のダウンジャケットが保護色かのように街を埋め尽くす。足下に目を落とせば〈Timberland(ティンバーランド)〉のイエローブーツか、もしくは〈Nike(ナイキ)〉のAir Jordan(エア ジョーダン)かAir Force 1(エアフォース1)、あるいは〈adidas(アディダス)〉のSuperstar(スーパースター)か、はたまた〈Clarks(クラークス)〉のWallabee(ワラビー)なのか。さらにブリングやグリルズ、腕時計といった装飾品を携え、キャップやドゥーラグすら精巧にかぶりあげ、口にはチュースティック(木の棒)が咥えられている ──。
これはショップスタッフの装いにあらず、誇張して言ってしまえば、宇田川町を訪れる者の条件反射的制服として認識できる世代も多いはずだ。こうしたファッションをまとうことによって、宇田川町という関所を突破できると誰もが勝手に意気込んでいた時代。NITRO MICROPHONE UNDERGROUND(ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンド)も例に漏れることなく、原宿や上野のファッション・カルチャーも経由した、極めて洗練されたいでたちで当時のB-BOYファッションの美学を体現していた。
2000年に突入し、「Reality(リアリティ)」盤/「Def Jam Japan(デフジャム ジャパン)」盤が共にリリースされたファースト・アルバムが計15万枚以上のセールスを記録したのはVOL.1で記述した通り。音楽のみならずファッションにも精通していたニトロの面々だが、その中でも鋭敏なアンテナを立てていたXBS(エックスビーエス)らは、『Manhattan Records(マンハッタン・レコード)』のアパレル事業部である〈Manhattan Clothing(マンハッタン・クロージング)〉に協業の提案をし、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのアパレルライン〈nitrow(ナイトロウ)〉を始動させた ── 。本稿ではヒップホップグループが打ち立てた前代未聞のアパレル事業の黎明から落日までをXBSの取材と共に振り返る。
ぶっ飛び乗り回る八色のKicks
音楽業界を席巻するだけでは飽き足らず、ファッションの分野へも着手したNITRO MICROPHONE UNDERGROUND。XBSが中心となり、メンバーからはおしゃれ番長として名高いGORE-TEX(ゴアテックス)とS-WORD(スウォード)が参画し、MURO(ムロ)やBACK DROP BOMB(バック・ドロップ・ボム)のアートワークを手がけていたグラフィック・デザイナーのEIGHT(エイト)をディレクターとして引き入れ〈nitrow〉は準備段階に入る。当初は〈Manhattan Clothing〉が持つアパレルの製造ラインを確保し、『Manhattan Records』の母体である「株式会社レキシントン」の全面サポート体制でスタートした。
この時すでに宇田川町の『Manhattan Records』の3Fを根城にしていたニトロの面々だったが、ほどなくして「Reality」の事務所を東北沢に構えることになり、その一角を〈nitrow〉のオフィスとして機能させた。〈nitrow〉は先に述べた3人(+グラフィック・デザイナーのEIGHT)が実質的な服飾班、BIGZAM/DABO/DELI/MACKA-CHIN/SUIKENが音楽班という住み分けとなり、音楽とファッションの両輪を走らせることになる。
「ニトロを結成してからアパレルを始めようと考えていたわけではなかった。みんな洋服が好きで、メンバーみんながManhattan Clothingに行っては洋服をもらったり安く買ったりしていて。そこで海外からの買い付けだけじゃなく国内に生産のラインを確保し、かつ製造会社も自社で持っていることを知って、『俺たちもやれんじゃね?』って思ったのがきっかけだったんですよ。そのタイミングでトラ(GORE-TEX)とEIGHTには声をかけていたんだけど、最初の頃はS-WORDは曖昧な感じだったから事務所に作ったnitrowの席は3席分だけで、あとからS-WORDの席を作った感じだったね。成り立ちもこんなフワッとした感じだったんだけど、なぜか『うまくいくんじゃないか』って根拠のない自信はあったんですよ。いま思い返せば後先なんか考えてない怖さしかないですよね。その頃って“ファッションは原宿、音楽は渋谷”みたいな時代だったと思うんですけど、その垣根を越えたいというか、何か変えたい気持ちが無意識で働いていたのかもしれないです」(XBS)
XBSは上野アメ横のミリタリーショップ『中田商店』、GORE-TEXも同じく上野アメ横の老舗スニーカーショップ『山男フットギア』との親交も深く、そして言わずもがな渋谷『STILL DIGGIN’(スティル ディギン)』、S-WORDは原宿『BLACKANNY(ブラックアニー)』で、そしてGORE-TEXとS-WORDはその後MURO(ムロ)氏のプロデュースするセレクトショップ『SAVAGE!(サベージ)』でアパレルのノウハウを学んでいるが、現場の叩き上げである彼らにとって、経営の責任を負うのは初の試みだ。しかし、始動初期からクリエイション制作は積極的で、卸先も決まっていないのにスタジャンのコレクションや厚手の塩ビコーチジャケットなど次々とプロダクトを生産。センスの良さを打ち出すためにも最初期からテキスタイル・デザインにもこだわり、納得のいく製品が複数完成すれば、『Manhattan Records』本社の3Fで展示会的な催事も行っていたと話す。
「Realityからニトロとして作品をリリースするタイミングくらいだったかな、『ニトロでAir Force 1作りたいよね。Nikeとつながれないかな?』みたいな話になったんですよ。ずっと上野で働いていたこともあって、山男(フットギア)とmita sneakers(ミタスニーカーズ)の両方に相談したら、山男がNikeの窓口になる人を紹介してくれて。そこで初めてNike Japan(ナイキ ジャパン)の門戸を叩くことになるんですけど、ちょうど“東京プロモーション”という部署ができたタイミングも重なって、本当にAir Force 1を作れることになったんです。ただ、その頃はニトロのロゴがはっきり決まっていなかったのでDef Jam盤に使用されたロゴ入りで作ってもらって、結局流通もすることのない幻のメンバーだけのAir Force 1になりました」(XBS)
ただでさえ無敵の艦隊化していたNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDに〈Nike〉のサポートが入る形は、まさに虎に翼だ。これまで過去の取材の現場で幾度となくニトロのメンバーと対峙してきた経緯があるが、メンバー各々が共通して「やりたいことしかやってない」という言葉を吐いてきた記憶が色濃く残っている。たとえそれが若気の至りだったとしても、当時の彼らが〈Nike〉をはじめ関係各所に外堀を埋めるような行為を働いていたとは到底考えられないし、打算的とは言わないが、結果的に戦略的とすら思えてしまう好結果を招いている。これが「うまくいくんじゃないか」の伏線を回収した大きな一歩となった。
音楽と洋服を駆動させる源
2001年、アルバム『NITRO MICROPHONE UNDERGROUND』メガヒットという音楽サイドでの成功に続き、アパレルサイドでも好機の波が訪れていたニトロ。しかし、売上15万枚という数字に対するグループへの見返りは、果たして本当にリアルな額面なのかと疑念を抱いたのはMACKA-CHIN(マッカチン)だった。事実、この局面においてニトロの面々は「Reality」、引いては「レキシントン」と袂を分かつことになる。この諍いが引き金となり、2003年初頭に『新星堂』限定でリリースされたシングル『NITRICH/ SPARK DA L』の後者の楽曲は、ニトロから「レキシントン(LEXNIGTON)」へ捧げる、ある種のレクイエムとなった。同年に前者の楽曲タイトルでもある「有限会社ナイトリッチ」が立ち上がり、その後を追うように『Manhattan Records』のサポートを受けていた〈nitrow〉は完全独立とともに〈nitraid(ナイトレイド)〉へと名称が変更され組織化されることになる。
「nitraidになってからは経営面を統括しなくちゃいけなくなったので、音楽も洋服もほぼニトロ以外の仕事は何もできなかった。でも、音楽とファッションは常に密なものだったから、音楽モードに切り替えなくちゃいけないみたいな焦りはなかったですね。ただ、nitraidとして独立した姿を見せないと意味がないと思っていたので、裏原の先輩ブランドとかにいかに負けずにプレゼンスを作っていくかばかりを考えてたような気がします。この頃にはeコマース(ネットショッピング)も広まってきていたと思うんですけど、洋服に関しては実際に店舗に行ってスタッフに聞かないとわからない、実物を見ないと納得できない時代だったじゃないですか。そういった過渡期だったと思うんですけど、ずっとZOZOTOWN(ゾゾタウン)との契約は断り続けてたんですよね。あの当時、オンライン(販売)を始めたら地方の小売店が死ぬと思ったんですよ。まあ、結果死にはしなかったんだけど(笑)、ぶっちゃけZOZOと提携していればnitraidは今でも続いていたんじゃないかなとか思います。
時代の流れが大きく作用したこともあるけど、nitraidはどうやってモノを売っていくかアパレル業界でも結構革新的な取り組みはしていたんですよ。いかに小売店に(オーダー数を)付けてもらうかが大事なので、シーズンごとのカタログはもちろん、展示会にもすごいお金をかけて圧倒するような形で開いてました。(カタログのページをめくりながら)半年に1回作ってたんだけど……まあ、大変でしたね。いろんな企業に支援してもらいながら続けられてましたけど、NikeとNew Era®(ニューエラ)には本当に長い期間サポートしてもらいました」(XBS)
〈nitraid〉が販売する商品は決して安価ではなかったため、そう贅沢に着こなすことはできない。しかし、当時のニトロ周りのラッパーや近しい関係値にあるレゲエ・アーティスト勢は、こぞって〈nitraid〉を着用していた印象がある。これはニトロの面々が〈Manhattan Clothing〉から洋服をもらったり安価で購入していた恩返しではないが、〈nitraid〉もプロモーションをかねてアーティストを中心に無償で提供していたという。その額、おおよそ年間でかなりの高級車が買えるくらい。また、洋服だけではなくプロダクトとしてジュエリーも生産し、2004年にオープンした〈nitraid〉のヘッドショップ『AGITO(アギト)』では毎週水・土曜日を商品デリバリースケジュールの日に設定し、カタログや雑誌に掲載された数々の商品は並みいるヘッズたちの手によって掠め取られていった。そして、〈Nike〉との信頼関係が結実する日が訪れる。
「ニトロのセカンド『STRAIGHT FROM THE UNDERGROUND』(2004年)リリース・タイミングで、Nikeとまた何かやりましょう、って話になったんです。ただ、時期的にAir Force 1はシーズン・イニシアチブではなく、その時は Delta Force(デルタフォース)復刻のタイミングだったので、それでスペシャルメイクをすることになって。Nikeも商売として販売する軸なので、ニトロのDelta Forceのカラーウェイは普通の品番で売られたんですよ。でも、『これだけじゃつまんないよね。ニトロのロゴを入れてメンバー分だけ作ろう』ってなったんだけど、中国の生産工場がロゴの対比を勝手に変えちゃって天地が潰れちゃったんですよ(笑)。何をしてくれてるんだっつって。違うバージョンで作って結果的に2種類のDelta Forceが存在するのは、こういう理由からです」(XBS)
「2007年、Air Force 1の25周年記念オフィシャルソング『SPECIAL FORCE』を発表したタイミングで、2つのカスタマイズモデルを制作しました。ひとつはベーシックなホワイトのAir Force 1にニトロのロゴと『SPECIAL FORCE』の文字をレーザー加工で墨入れしたモデル。もうひとつは、GORE-TEXがデザインした水色とブルーの配色が特徴のモデル。これはAir Force 1の名前の由来であるアメリカ空軍機のカラーリングを模して、NikeIDで作ったんだよね。どちらもメンバー分しか作ってないんじゃないかな。もちろん、非売品です」(XBS)
「その後NikeとはAir Force1 25周年(2007年)のタイミングでのモザイク迷彩スニーカーを経て、ニトロ結成10周年でAir Force1の黒金を作ることになったんですけど、ずっとローカットのスニーカーだったのであえてハイカットモデルにしたんです。ベスト盤『NITRO X 99-09』(2009年)のジャケットをフューチュラ(Futura)に描いてもらうことになったのも、実はこの流れがあったからなんですよね。フューチュラですよ? 僕もEIGHTも一番好きなアーティストがフューチュラだったんで、正直もうこれ以上のストーリーはないだろうくらい感動しました」(XBS)
「その後のNike Japanとの取り組みの中で企画したAir Jordan 5 Retro T23(通称 “Tokyo23”/2011年発売、2025年に復刻)が販売されるときがくるんですけど、さすがにもう夢が叶った、人生に未練はないくらい思いましたよね。だって今回の再販でマイケル・ジョーダン(Michael Jordan)本人が履いてる動画が出てきて、ある意味燃え尽きた感もありました。いま思い返すと、本当に必死だったんだろうなって思う。とにかくかっこいいものを提示しなくてはいけない、誰かの真似じゃなく前人未踏の偉業を成し遂げるくらいの気持ちだったんでしょうね」(XBS)
グローバルブランドとのコラボレーション
ニトロおよび〈nitraid〉は前述の〈Nike〉のほか、〈New Era®〉や〈STÜSSY(ステューシー)〉といったグローバルブランドとのコラボレーションを数多く実現してきた。2010年代以降、有名ラッパーがシューズメーカーやファッションブランドとコラボレーションすることは一般化したが、ニトロはトラヴィス・スコット(Travis Scott)が〈Nike〉と継続しているような取り組みを20年以上前に実現していたと言える。ここからは、〈nitraid〉から過去にリリースされたコラボアイテムや名作の一部を紹介したい。
「初期の頃のコラボレーションとしては、Sennheiser(ゼンハイザー)のヘッドフォンかな。これは確かNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDとnitraidバージョンの2種類あって、前者は非売品だったと思う。あとはBE@RBRICK(ベアブリック)とかこれ以外にも色々と作りましたね」(XBS)
「New Era®はNike Air Force 1とともにB-BOYの制服のようなもの。nitraidでマジ何個売ったんだろう? っていうぐらい毎シーズンで3つぐらい別注していたくらいです。これまでにいろんなアーティストがスペシャルボックスを作ってきたと思うけど、日本ではニトロが初めてだったんじゃないかな。刺繍はフューチュラのフォントなので、僕は絶対かぶれないです」(XBS)
「nitraidで毎冬スタジャンを必ず1着出してたんですけど。この黒金は結成10周年のときに作ったもの。右袖にnitrich、左袖にnitraidの文字を、全ての商品にナンバリングを入れた合作的なスタジャンですね」(XBS)
「Nikeが1989年〜90年にプロ野球選手のボー・ジャクソン(Bo Jackson)を起用した“BO KNOWS”というキャンペーンを展開してて、それをニトロメンバーに置き換えたTシャツを作りたかったんですよ。“XBS KNOWS”とか“MACKA-CHIN KNOWS”とか。でも、全員分提出するのが遅くてボツになっちゃたんですよ。結局、“NITRO KNOWS”と“AGITO KNOWS”の2種類作りました。“NITRO KNOWS”は一般販売して、“AGITO KNOWS”は店舗スタッフ分だけ作った非売品ですね」(XBS)
「2007年のアルバム『SPECIAL FORCE』発売記念ツアーTシャツをSTÜSSYが作ってくれました。写真でメンバーが着てるのは、Dr. Romanelli(ドクター ロマネリ)のジャケットかな。STÜSSYは30周年記念パーティ(STUSSY WORLD TRIBE 2010 30th Anniversary Party)がageHaで2010年に開催されて、ニトロも出演しました。ちなみに、当日はNikeが作ってくれた黒ボディに青いラインの入ったデストロイヤージャケットを着てライブしましたね。同時期に、STÜSSYからサングラスもブラックはリリースしましたね」(XBS)
「Levi’s®(リーバイス)が藤原ヒロシさん主宰の fragment design(フラグメント デザイン)と2000年代に展開していたLevi’s® Fenom(リーバイス フェノム)というクリエイターズラインとのコラボレーションモデルです。あの時代リリースすると一瞬で完売し、ストリートでも話題だったLevi’s® Fenomでニトロとコラボできないかなと思い、当時からヒロシさんとお付き合いのあったレーベルの代表からお願いしてもらいました。Fenomのデニムは腰の部分にカラーストーンやビーズをあしらったデザインが特徴的だったので、僕らはニトロらしく、スタッズで東京の夜景をイメージして作りました。バックポケットの部分にはニトロのNロゴを入れ、ブラックデニムのみで展開しました」(XBS)
「AVIREX(アヴィレックス)とはここ数年コラボレーションを継続していましたね。2023年にブラックのMA-1、ニトロのデビュー25周年にあたる2024年にセージカラーのMA-1、2025年にはブラックのN-2Bをリリースしました。25周年企画としては、『山男フットギア』で販売したClarks ORIGINALS(クラークス オリジナルズ)Wallabee Boot(ワラビー ブーツ)のカスタマイズモデルもあります」(XBS)
グループ活動休止とブランドの終焉
2026年現在、国内のヒップホップシーンで自身のアパレルブランドを主宰するラッパーがいても、なんらめずらしくもない。これだけ隆盛を極めるシーンに対して、服飾界隈も黙って見過ごすこともないだろう。いまだに企業から敬遠されがちな日本のアンダーグラウンド・ヒップホップシーンではあるが、そのイメージを大きく払拭することができたのは、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDというアンダーグラウンドから現れた独立国家的存在が開けた風穴の恩恵、と言っても大袈裟ではないはずだ。が、そんな順風満帆だった〈nitraid〉に暗雲が立ち込めることになったのは、2012年のニトロ本体の活動休止のタイミングだ。
「まず2008年のリーマンショックが大きかったと思う。nitraidの商品を扱ってくれていた地方のショップの経営が立ち行かなくなる一方で、nitraidで生産する商品は採算度外視でこだわり続けちゃったんですよ。本来なら展示会の規模も縮小すべきなのに、ヘンな噂を立てられるのが嫌だったんで見栄を張り続けてしまった。ニトロとしてアルバム『THE LABORATORY』(2011年)リリース後、『もう何もやれないんだったら活動休止を宣言したほうがいいんじゃないか?』ってレーベルの社長が提案したときには負債は2億5,000万円まで膨らんでた。時系列的にニトロ活動休止後の2013年にnitraidが倒産してるんで、当時はいろんな憶測が飛び交ったと思う。正直、倒産後は表に出たいとも思わず、1年くらいは隠居生活みたいな感じだったんじゃないかな。申し訳ないが人とは会いたくありません的な」(XBS)
『THE LABORATORY』がリリースされたのは2011年の元旦だ。積極的に外部プロデューサーを招き入れ、ニトロの新たな世界観を提示する意欲作となるはずだったが、「もう何もやれないんだったら活動休止を宣言したほうがいい」と社長が提案したように、この2カ月後に東日本大震災が起き、国内すべてのエンターテインメントがストップしたことも活動休止に大きな影響を及ぼした。
「2019年の再結成の話が出たとき、音楽活動をしていなかった僕は解散までのシナリオをみんなに提案したんですよ。何もやってないのにレジェンド化されてるんだったら、もうよくない?って。伝説のまま生きられる生きた伝説になるのも悪くないって。メンバー全員は知らないと思うけど、ライターと壁打ちまでして脚本を書いたくらいですから。
昔は年を取ることが怖かったけどさ、今は年を重ねてみて『別にいいじゃん、それはそれで』って腹が据わったというか、気負いがなくなったのかな。一昨年の夏に自己破産のブラックリストから外れたんですけど、それを経たこともめちゃめちゃデカい。昔から先輩に『男は経験だ』ってずっと言われてきたんですけど、沢山の方に迷惑はかけてしまったけど、今では笑って倒産話もできるくらいになりましたからね。誰でもそう簡単に経験できることじゃないし、それ以外にもニトロは世間的に見れば“デビューから一発当てちゃったグループ”って思われてる節もあるわけじゃないですか。こないだも仕事のポップアップで名古屋や福岡とかいろいろ行ったんですけど、『ニトロは僕の青春です!』とか話してくれたり、『13年前に一緒に撮った写真です!』とか大事に持ってきてくれたりとか、そういう人たちの人生に深い影響を与えてるのって、めっちゃ尊いなって改めて感じることができたんですよ。もう感謝でしかないというかね。
こないだDABOがMcGuffin(マクガフィン)で『いまニトロのメンバーはみんな仲が良いほう』って話してたんだけど、実際そうで、メンタル的にも。これまではアルバムの制作ごとにみんな集まってたけど、それぞれのバイオリズムが違いすぎて、なかなか乗り切れないメンバーもいたと思うんですよ、自分含め。でも、最近はすごくいいバランスなんじゃないかなって感じてるんです。やっぱそれはみんな年を取ったというのもあるけど、本当に肩の力が入っていないリラックスしている感じで制作に臨めているのは、なんだかんだで(ニトロが)始まった頃の自然な感じがしますよね」(XBS)
〈nitraid〉を切り盛りしたラッパーであり辣腕経営者でもあるXBS。2026年に入ってからはマザーグース神宮前保育園の施設長に就任するニュースが報道されたり、新たな幕開けとなるEP『FRACTAL』制作プロジェクトのクラウドファンディングがスタートしたり、1月20日(火)からはフォトグラファー 深見展啓としての個展 “FRACTAL — Reflection of Nature —”を開催と、多岐に渡る活動範囲は、もはやひとつの肩書きでは収まり切らない。かつて服飾のプロフェッショナルを極めた男は、数足のわらじを巧みに履きこなす副職のプロフェッショナルとしても活躍の場を広げている。




















