Interviews:スケートとアートとスティーブ・オルソン

レジェンドスケーターが語るチェッカー柄のこと、Z-Boysのこと、息子のこと、アートのこと

スポーツ 
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1940年台後半〜’50年代を黎明期とし、’60年代から本格的にカリフォルニアの若者を中心に世界に広まったスケートボーディング。今では各国無数のローカルブランドから世界的なスポーツウェアカンパニーまでもがライダーを抱え、次期オリンピックの競技種目にもなったスケートボーディングだが、その歴史はさほど長くない。故に、その歴史を形作り、スケートボーディングという文化の基礎を作ったレジェンドと呼ばれる人物たちの多くも未だ現役である。そして彼らの多くが体現しているのが、スケートボーディングが単なるスポーツではなくライフスタイルの一部だということ。スケートボードに乗り続けることだけでなく、スケートボーディングに紐づく音楽、アート、デザイン、クラフツマンシップ、写真、起業、社会活動などを通じで、現在もシーンに数々の興奮と影響、可能性を与え続けているのだ。

“Yes, for sure”の3ワードでインタビューを快諾してくれたSteve Olson(スティーヴ・オルソン)も、そんなOGスケーターの1人。パンクロックをスケート界に持ち込んだ人物として、プールやパークでのパワフルなスケート技術だけでなく、その圧倒的な存在感とスタイルで人々を魅了した10代の少年は、55歳になった今、アーティストとしてもその名を知られる人物となった。水の抜けたバックヤードプールで過ごす時間よりも、メルローズにある自身のスタジオでアートピースを制作する時間の方が圧倒的に長くなったと語るが、インタビュー中にLance Mountain(ランス・マウンテン)からの電話でスケートトークを繰り広げる姿も健在。

これまでセンセーショナルなメッセージ性を持つアートピースを制作してきた彼について“steve olson art”とGoogleサーチをかければ、「スケートボードレジェンドSteve Olsonのアートは政府機関のビルに置くにはセクシーすぎる」、「アーティストでスケーターのSteve Olsonの作品が、サンタバーバラ郡の役所スタッフにより展示会場から撤去される」などの記事が浮上する。これらの記事は“Buy Sexual”の文字が掲げられた彼の作品で、現在は彼のスタジオの壁にかけられている。ただ、重要なのは彼が新聞やニュースの見出しになったことではなく、彼のアートに対する姿勢が、スケーとボーディングに対するアグレッシブな姿勢と変わりないということ。スケート仲間でもあるLance Mountain、Pat Ngoho(パット・ノーホー)らとともにアートショーシリーズ“Love and Guts”を開催するほか、『Known Gallery』、『Hadid Gallery』、『Nyehaus』、『MODA(Museum Of Design Atlanta)』など、名だたるギャラリーでの展示をしてきたMr. Olsonは現在、ハンドペインティングによるアブストラクトな作品作りに熱中しているとのことで、インタビューに訪れたスタジオには抽象的なペイント作品が至る所に点在していた。

スケートの歴史とともに大人になったレジェントは、Skater of the Yearに選ばれた10代の頃のエピソード、あのスケートとチェッカーボードについての裏話、息子であるAlex Olson(アレックス・オルソン)とのストーリー、そしてアーティストとしての活動のきっかけなどを教えてくれた。レジェンドMr. Olsonへのインタビューを以下よりどうぞ。

- まずはスケートボーディングにつて聞かせて下さい。スケートの創成期とも言うべき時代に、このスポーツとともに大人になっていくというのはどんな感じだったのですか?

スケートボーディングの上り坂も下り坂も、絶頂期も最悪な時も知ってるよ。’60年代、トイストアやデパートに並ぶスケートボードはオモチャのような扱いだったんだ。だからスケートボードを持ち歩くのは、フラフープを背負ってるようなもんだった(笑)。ただフラフープみたいに一箇所に突っ立って遊ぶんじゃなくて、スケートボードはせめて上に乗って移動できるだろ。でもまあ、そんなもんだ。よく売れてたと思うんだけど、そのうち何故かそういう店にも置かれなくなったな。当時のウィールはクレイだか何かでてきてて、そんなによくできた代物じゃなかった。それでもスケートボードっていう存在自体はイカしてたんだ。俺が初めてスケートボードを手に入れたのは’66年だった。メタルのウィールで、お世辞にも滑らかな乗り心地じゃなかったな。スケートボードがサーフィンから生まれたできの悪い親戚ってのもよく聞くハナシだ。その後突然、ウレタンウィールが出てきたんだ。今の若い子たちに何て説明してやったらいいのかわかんないけど、多分例えるなら、携帯で電話じゃなくてテキスト(メール)が送れるようになったっていうくらいの衝撃かな。っていうのは冗談だけど、今まで硬くてうるさくてガタガタしてたものが、いきなり大理石やガラスの上を滑ってるようなスムーズなライディングに変わったんだ。それから全てのことが動き始めた。ボードやトラックにも、毎週、毎日のように色んな進化が起こり始めたみたいだった。

- スケートボーディング自体のあり方や扱われ方はどう変わっていったのですか?

まずスケートパーク、プールスケーティングが台頭し始めた。’70年代半ば、ストリートスケーティングはフリースタイルって呼ばれてたんだ。逆立ちしたり、スピンしたり、体操の床種目みたいな感じだったな。オーリーの前段階みたいなのも生まれた。シーン自体が沸き立っていて、色んな奴らが色んなところで注目され始めてたよ。’70年代後半から’80年代前半にはスケートパークがいたるところにできて、プロやそうじゃないやつらもみんなスケートボーディングで金を稼いでた。でもそれは突然終わったんだ。パークの安全性や保険絡みの問題で訴訟が起きたりして、スケート業界全体に不景気が訪れたわけだ。『Skateboarder Magazine』も『Action Now』に名前を変えて、BMXやサーフィンやローラースケートなんかも取り扱う雑誌に方向性を変えざるをえなかった。

ただ’80年代に入るにつれ、Bones BrigadeやGnS、Visionのキッズが現れたんだ。Santa CruzやPowell Peraltaとさ。それでまたシーンが蘇った。ヴァートスケート人気はすごくて、ストリートコンテストも開かれるようになった。俺も最初の3つか4つか5つのストリートコンテストに出たよ。最高だった。でもまたスケートは死んだんだ。それは単純に当時のキッズたちの大半に響かなかったのか、世代の問題かもしれない。ただ’90年代に再びカムバックした時は、これまで以上に大きな影響力を持ってた。毎回そうなんだ。ブームが戻ってくるたびに、その波はより大きく、より強くなっている。そして同じようにまた停滞期にぶち当たるんだ。2000年代にも更にまた下火になったな。でもその停滞期に、より強固な地盤をつくってまた復活するんだ。だからスケートボーディングにそういった停滞期があるにしろ、もう2度と’80年代初めのような暗黒時代は味わわないはずだ。当時俺の周りは「もう会社を潰すしかない。店をやり続けるなんて無理だ」なんて言ってたし、19歳だった俺も「一体これからどうしよう?俺のスケートキャリアはもう終わりだ」と思ったよ。1年前に始まったばっかりだったのに。

Steve Olson Interview skateboarding art alex olson

- Dog Townのクルーとはどんな関係だったのですか?

Zephyrチームとはサーフィンを通して知りあった。そして気づいたら彼らはスケートボーディングシーンのど真ん中にいる存在になってた。自分のチームが他のチームと競っていたら、自分が勝てるようにしたいと思うのは当然だろ。でもそれはライバル視してたってわけじゃない。Zephyrがライバル視してたのは俺たちじゃなく、南カリフォルニアのサンディエゴの奴らだよ。俺たちはプールスケーティングがコンペティションの形になってからの第二世代ってとこかな。プールライディングにはパイオニアみたいなスケーターたちがたくさんいて、その中の一部がフィルムを作って「俺たちがプールやってるんだぜ」って見せるだろ。実際はもっと多くのスケーターたちだってプールライディングしてるけど、もちろん彼らはそんなこと言わない。とにかくいちばん騒がしくてバッドアスな奴らが、これがスケートボーダーなんだぜって見せつけてるかっこいいフィルムなんだ。俺は仲のいいStacey Peralta(ステイシー・ペラルタ)に、「スケートボーディングをよく知らない人たちはこのフィルムを見て絶対ブッ飛ぶだろうな」って言ったのを覚えてる。そしたら本当に、サンダンス映画祭でドキュメンタリーの最優秀賞をとったんだ。彼(Stacey Peralta)は「何でわかったんだ?」って言ってきた。俺は、「別にわかってたわけじゃないよ。ただの冗談だったけど、そうなって欲しかった。実際賞をとって、俺がお前のためにポジティブでいてやった感が出るだろ」って返したんだ。当時のスケートボーダーたちからしたら、あの受賞はみんなで勝ち取ったような気分だった。スケートボーダー全員が受賞したみたいなもんさ。

- Steve自身も素晴らしいキャリアをお持ちですが、ティーンエイジャーでSkater of the Yearを受賞したときのことを聞かせてください。

17か18歳の時に選ばれたな。(スタジオにあったトロフィーを指差して)アレがそのときのトロフィーだよ。顔のところがやばいだろ?息子が小さい頃、あいつにG.I. Joeのアクションフィギュアなんかを買ってやったんだけど、ある日家に帰ったらそのマスクがトロフィーの顔にかぶせてあったんだ(笑)最高にSickだろ。とにかく、最初の年はTony Alva(トニー・アルバ)が受賞した。彼はすごい人気者だったし雰囲気のある態度も最高だった。それで次の年、まずトップ10のスケーターの名前が呼ばれて(そこに入っていた)俺は思わず「Wow」って思った。そこからトップ5に絞られた時に誰かが、「俺なんてトップ10にも入ってない。マジでダサいぜ」ってこぼしてて、俺は「あぁ、でもどうでもいいじゃねーか」って言ったんだ。それからトップ3になった時に近くにいたやつに、「お前かお前かお前の誰かだぞ!」って言われた。俺は「うるせぇな、お前バカじゃねぇの!」って言ったんだけど、それからトップ2が発表されて、Alvaが落とされたんだ。みんなに「お前だよ!他に誰がいるんだ!?」って言われて、「マジかよ!そんなわけないだろ!」って言いながら、ぶちのめされたみたいに凄く興奮してた。でも今でも覚えてるんだ。当時俺はパンクロックのガキだった。確かレザーパンツを履いてて、黒いシャツに水玉のネクタイして、白いディナージャケットを着てた。俺の足には小さすぎるのに、なぜかボロボロの先っぽが白いポインテッドトゥシューズを履いてた。誰かが「Speech!」って叫んだんだけど、俺は「Fuck you!」って返して、スピーチなんかせずにカメラに向かって唾を吐いてやったんだ。俺は当時全てのことに反発してた。それでみんなに「こいつ本当に賞をとった事がどうでもいいんだ」って思われてたけど、実際俺はものすごく嬉しかった。外には「こんなのクールでも何でもないじゃん」って顔してたけど、心の中では「これって人生で最高の出来事かもしれない」って思ってた。実は本当に誇らしかったしハッピーだったんだ。

Steve Olson Interview skateboarding art alex olson

- チェッカーボード柄の本当のストーリーを聞かせてください。スケートボーディングシーンにこの柄を広めたのはSteveですよね?

確かに初めてチェッカー柄をスケートシーンに持ち込んだような気はしてるけど、実際の所どうなのかは知らない。俺は自分の目から見た当時の事なら教えれあげられるよ。子供の頃、サーフィンとスケートボーディングと車が好きで、自分なりの価値観でファッションも好きだった。Levi’sのジーンズやHang Tenのシャツ、いくつか決まった形の靴が好きだった。Vansキッズの1人って感じかな。16歳のとき、Santa Cruzのモデルを手に入れたら、彼らはグラフィックと俺の名前をそこに入れてくれた。当時のガキからしたら、アメフトのボールにJoe Namath(ジョー・ネイマス)サインをもらう事や、野球のグローブにReggie Jackson(レジー・ジャクソン)のサインをもらうくらい嬉しい事だったんだ。それに関してはクソ野郎でいる事も忘れて本当に嬉しかった。その頃、音楽でパンクロックシーンが広がり始めて、俺はそれにのめり込んだ。兄貴の影響かな。兄貴の頃は’50年代のロックンロールシーンで、俺たち’70年代はパンクだった。音楽が俺たちのエネルギー源だったんだ。ファッションを含め、そのシーンをどんどんディグるようになっていったね。独特なカルチャーだから、のめり込めばのめり込むほど、他のノーマルな人たちとはかけ離れていくんだ(笑)。普通の人はそんな奴らを理解してやろうなんて思わないから、変人とかホモ野郎とか勝手な呼び名をつけるんだ。

俺は自分のデッキがヒッピーみたいだったから、グラフィックを変えたかったんだ。全然俺っぽくなかったからさ。それで兄貴と話して、好きだったレースカーとか、モーターサイクルのイメージから「チェッカーボードにしようぜ」って決めたんだ。兄貴が描いたグラフィックの出来がすごく良くてさ、気に入ってたんだ。それからVansにカスタムシューズを作ってもらいに行った。当時のVansは今みたいな大企業じゃなくて、スケートシューズしか作ってなかったからそういうカスタムも気軽にできたんだ。俺はチェッカーボード柄と、昔のElvis(エルビス)の衣装みたいなゴールドのラメでシューズを作ってもらったんだ。チェッカーボードもラメも完璧だったよ。今も持ってればよかったんだけど、捨てちゃってさ。後悔してるんだ。持ってれば俺の話の裏付けにもなっただろ?この靴のストーリーをよく知ってる奴は去年死んじまったからな。まあとにかく、それが俺のストーリーだ。そのあと気付いたら、チェッカーボード柄の靴やアイテムをスケーターたちが身につけてたっていう流れだ。俺はチェッカーボードについて何の権利も持ってないけど、スケートをしてる奴らの中で俺より先にあの柄を使ってる奴はいなかったっていう事くらいだな。誰かが似たようなグラフィックを作ってあとはもう何でもアリだ。俺と兄貴で作ったグラフィックだったけど、叫んでる手のグラフィックで知られてるJim Philips(ジム・フィリップス)って奴がいるだろ。あいつはいいやつだけど、自分でやってもいないアートワークの手柄を取る必要はないんだよな。残念な事だよ。自分のアートワークのクリエイションが他の誰かのものみたいになるなんてな。でもそれが現実だし、それが真相なんだからしょうがない。1足につき1ニックルでももらえてたら相当な金額だったろうな(笑)。あの靴を捨てたのは本当に残念だよ。写真を持ってる奴くらいいるだろうけど(笑)。

- お気に入りのスケーターは誰?

よし、これはクイックでストレートに応えよう。’60年代に好きだったのは Danny Bearer(ダニー・ベアー)、Bruce Logan(ブルース・ローガン)、Torger Johnson(トーガー・ジョンソン)、Mike Hansen(マイク・ハンセン)だ。そして’70sはTony Alva、Jay Adams(ジェイ・アダムス)、Kevin Anderson(ケヴィン・アンダーソン)が大好きだった。俺たちの世代だとBrad Bowman(ブラッド・ボウマン)、Shogo Kubo(ショウゴ・クボ)、Ed Nadalin(エド・ナダリン)、Stevie Monahan(スティーヴィー・モナハン)がいるな。’80年代に入るとLance Mountain(ランス・マウンテン)、Christian Hosoi(クリスチャン・ホソイ)、Tony Hawk(トニー・ホーク)、Steve Caballero(スティーヴ・キャバレロ)、Jeff Phillips(ジェフ・フィリップス)。’90sから’00年代は Rick McCrank(リック・マックランク)とChad Muska(チャド・マスカ)が好きだ。彼はすごく自分のスタイルを持ってると思うよ。ある日息子が帰ってきて、「僕たちMuskaって人見たよ!レールに乗りながらレールに向かって‘Come on man, we’re gonna do this!’って話しかけてたんだ!」っ言ってきた事があった。「なんて素晴らしい変わり者だ!」って思ったね。他にも沢山いる。Dwayne Peters(デュアン・ピーターズ)もバッドアスだし、ニューヨークのKevin Taylor(ケヴィン・テーラー)もSpanky(スパンキー/Kevin Long)も、Andrew Reynolds(アンドリュー・レイノルズ)も最高だ。スケートをやってる奴らはみんな大好きだよ。

それと、俺の息子がコンテストで滑ってるのを見るのが好きだったな。ダウンタウンであったVansのコンテストで、アマチュアだった息子が勝った時は本当に嬉しかった。父親として最高の瞬間だったよ。それから、息子と一緒に2007年のSupremeのカバーをやった。Alexはボンレスをやってて、俺はフロントサイドグラインドをしたんだ。それから、- あ、息子びいきなのは許してくれ – Alexが彼にとって初めての大仕事だったLakaiのビデオFully Flaredで滑ってるパートを見た時は、父親としてもスケートボーダーとしても最高の気持ちになった。あいつのライディングがヤバかったし、彼が自分の息子で本当に誇らしいと思ったんだ。自分の息子が何かに一直線に向かっている姿を応援できない親だって沢山いることを思うと、こう言える事は親としても幸せなんだ。俺は自分がすごく恵まれているし幸運だと思う。この話、続けなきゃいけない? 俺泣きそうだよ。っていうのは冗談(笑)。でも自分の息子がスケートボーディングをしているっていうのは本当に最高だよ。

Steve Olson Interview skateboarding art alex olson

- アートを始めたきっかけは何だったのですか?

俺はあと数年で60歳だ。でもまだスケートボードに乗ってる。数十年前からアートを始めて、それ以来自分の関心の赴くままにやっているから続けていられるんだと思う。今はすごくアートに没頭してるよ。俺は正式にどこかで修行やトレーニングを受けたアーティストではないけど、やる気があるならやればいいと思う。「できることがあるならやってみればいい」っていう態度が俺は好きだし、そういう姿勢は俺のスケートボーディングのスタイルと一緒なんだ。アートとスケートはそういう意味で繋がってる。裏側にある真理は別モノかもしれないけど、実際にそれに向かう姿勢と、繰り返しやって学ぶ、自分のものにするっていう点では似ていると思うんだ。学ぶ事ではあるけど、必ずしも型にはまった教育を受けて身につくものではないから。俺は世の中の心配なんて大してしていないけど、ペインティングには今までより真剣に向き合ってる。母親が亡くなって、俺は父親が大丈夫かっていう心配ばかりしていて、いろんな事を考える時間がありすぎると頭がおかしくなる気がしてペイントを始めたんだ。それまで大してペイントブラシにも触ってなかったけど。色合いや配色は、パンク、ロックンロール、ファッション、そしてスケートボーディング全体を通して自分が触れてきたものが還元されている。それをキャンバスに落とし込んでいくんだよ。

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