『BoF』による山本耀司氏へのレアなインタビュー

ライフストーリーからブランドフィロソフィー、〈Y-3〉登場のきっかけまで

ファッション
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プレスシャイとして知られる〈Yohji Yamamoto〉のデザイナー「山本耀司」氏が、『Business of Fashion』のファウンダー「Imran Amed」と対談。世界が認めるタイムレスピースを生み出すデザインフィロソフィーと、自身のライフストーリーについてを明かした。対談では、幼少期から文化服装学院卒業後のパリでの生活、日本への帰国を経て、パリに戻るまで、そして80年代前半にパリコレクションに「黒の衝撃」をもたらしファッション界に多大な影響を与えることとなったブランドストーリーが語られている。「運が良かっただけ」と謙虚に話すが、運だけでは成し得ない偉業を遂げてきた「山本耀司」氏。若きデザイナーたちへの言葉として、「若い人たちはまだ個性や力を十分に持てていないのだと思います。だから私は、大好きな人の仕事を真似なさいと言います。コピーしてコピーして、それを繰り返した先に自分らしさを見つければ良いのです」と述べた。
また、〈adidas〉との〈Y-3〉コレクションの誕生についても語った山本氏。パリでの成功後、自分のデザインした服がコレクターの手元や美術館に並ぶ代わりに、街で見ることがなくなってしまったと感じた氏は、「自分がストリートファッションからとても遠くにきてしまった」と思い、〈adidas〉にコラボレーションを申し入れ〈adidas〉が快諾。以来、現在まで続くハイファッションとストリートウエアコラボレーションのパイオニア的存在として認知されている。

そんなレアな対談記事の抜粋を以下よりご紹介。記事の全文、そしてインタビューの様子が映し出されたビデオもこちらから是非チェックしよう。

文化服装学院在学中に賞を受賞し、卒業後パリに留学した当時は、自分が学んできたオートクチュールではなくブレタポルテ(ready-to-wear)が主流になったため、苦悩する日が続き「自分ができることはないんだと思った」という山本氏。その後日本への帰国を決意をする。

そして帰国後、デザイナーとして自分が本当に求めているデザインに目覚め始めたという山本氏。「多くの女性からオーダーを受けてドレスなどを作る母のオーダーメイドの洋装店で仕事を手伝っていました。どれもセクシーでゴージャス、人形の衣装のようなものやフェミニンなもので、自分ではほとんど興味のないデザインでした。ただお客さんのフィッティングを助け、ひざまずいて裾のお直しをしならが、女性用のマニッシュな服が作りたいと思うようになったんです。」

アシンメトリーなシルエットにモノクロームなカラーパレットが特徴的な氏のデザインについて、「街に出ると、たくさんの“ファッション”と呼ばれるものがあり、たくさんの色、たくさんのデコレーションが溢れていて、とても醜い。少なくとも僕はひどい色使いで人々の目を混乱させたくないんです」と話す氏は、“センチメンタルな色”ではなく、カット、ウォッシュなどによって表現される服の美しさに焦点を置いた。

山本氏はその後既製服を扱う会社を設立し、日本各地のバイヤーに知られるようになった。この地道に築いていった成功が氏にパリへの挑戦を思い起こさせた。「パリにも、わずかながら自分のデザインを面白いと感じてくれる人がいるかもしれない」と思った山本氏は、パリに店舗を構えることを決意。奇しくも店舗オープンのその日が、古くからの友人「川久保玲」氏率いる〈Comme des Garçons〉が、パリで初めてショーを行った日となった。

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