André Saraiva: 最大規模のレトロスペクティブ展とパリのグラフィティ

刻一刻と進化し続けているグラフィティという大衆化されたアートシーンでは新たな才能が次々と現れ、トップランカーとしてシーンに君臨することは容易ではない。André

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刻一刻と進化し続けているグラフィティという大衆化されたアートシーンでは新たな才能が次々と現れ、トップランカーとしてシーンに君臨することは容易ではない。André Saraiva(アンドレ・サレヴァ)のように成功したのはごくわずかだ。アンドレは“Mr. A”という第2の自己としてグラフィティ界で高く認知されているだけでなく、エンターテイメントやホスピタリティといった領域でも成功を見出そうとしている。栄光に満足して精進を怠る人間ではなく、「L’Officiel Hommes」誌のアートディレクター、Louis Vuitton、Chanel、Fendi、GivenchyあるいはLevi’sといったファッション界の錚々たるブランドとのコラボレーション、ショートフィルムへの参加、パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京に続いて5つ目の上海出店も間近となる、彼のクラブ「Le Baron」帝国を拡大していくことといった彼の役割からいずれにしてもアンドレはクリエイティブであり続けようとエネルギーを見出している。アンドレは今、リスボンのデザインとモード美術館『MUDE』で自身最大のレトロスペクティブ展を開催している。過去25年にわたるアンドレの活動の完全なコレクションの展示となっている。この世界的に有名なアーティストのメモラビリアに合わせ、スカルプチュア、フィルム、シルクスクリーン、ペインティングが展示され、Le Baronのためのセクションも用意された。今回はアンドレのポルトガルとの縁、パリのグラフィティスタイル、アーティストと起業家の両側面について話を聞いた。


人生のエキシビジョン

“回顧というのは若干自惚れのように聴こえちゃうけれど、今回の展覧会はもっと僕が考えていることを反映していて、クリエイティブな事業が今の僕をつくっているんだ。”

 

ポルトガルとはどんな縁で? どうしてリスボンのMUDEでの個展を決めたの?

両親がふたりともポルトガル人なんだよ。ふたりは(アントニオ・)ザラザールの独裁政権下のポルトガルから亡命して、スウェーデンで政治難民となったんだ。僕はスウェーデンで生まれ育って、80年代にパリへ移った。僕はパリジャンのグラフィティを生み出した最初の書き手のひとりだった。グラフィティのおかげで世界中を旅して回れてラッキーだね。この展覧会は僕のこれまでのすべてを両親のホームタウンに帰らせてくれた。振り出しに戻してくれたんだ。

この個展を自分のキャリアの回顧と呼ぶのはフェアなこと?

回顧というのは若干自惚れのように聴こえちゃうけれど、A今回の個展はもっと僕が考えていることを反映していて、クリエイティブな事業が今の僕をつくっているんだ。僕はこれまでの25年分のインタビューの抜粋や雑誌のカバー、グラフィティの写真でコラージュをつくったんだ。この展覧会 は僕の人生を語ってくれている。それはグラフィティ・ショウとしてくくるべきじゃないんだ。

展示するために選んだものは?

僕はここ何年にもわたって制作してきた思い出の品やコレクティブルを展示しているよ。アーカイブから古いスローアップの写真や、僕がペイントしたパリジャンのメールボックスまでね。今回の展覧会には信じられないラインナップで事実に反するコンサートのポスターがあるんだ。このポスターをそれぞれ異なる都市に掲示して、みんながその会場に行ったら、チケットを取ろうとするだろうね。KRINKとMedicom Toyとのコラボレーションを展示したり、僕が精力的にペイントしていた1986年の車に描いた作品も展示している。Keith Baughの「Early New York Subway Graffiti 1973 – 1975」のように僕にインスピレーションを与えてくれる本たち。僕にとっての卒業証書。それから僕のクラブ事業を取り上げたセクションもある。


一つの大きなクリエイティブな試み

“僕は同時に異なる企画をやりながらバランスを取ることを楽しんでいる。そういうことがエネルギーになっているんだ。”

 

アーティストであることだけでなく、あなたはLe BaronとパリのHotel Amour(オテル・アムール)のクラブグループのオーナーでもあって、ファッションブランドともコラボをよくしている。どのように自分の時間をやりくりしているの?

僕のどんな企画もお互いに合っているんだ。全部一つの大きなクリエイティブな試みなんだ。Keith Haring(キース・ヘリング)がTシャツやメモラビリアグッズのためのアートワークなどを販売する「Pop Shop(ポップ・ショップ)」をつくったときのように、あるいはGordon Matta-Clark(ゴードン・マッタ=クラーク)の70年代のニューヨーク、ソーホーに構えたレストラン「Food(フード)」 のように、僕自身、Le Baronとの活動は、僕のアートの拡張と言える。上海にLe Baronがオープンしたばかりなんだ。僕にとって中国で初めての出店なんだ。クラブとしてのコンセプトを持ちながら、ソーシャルな体験の場でもある。僕は同時に異なる企画をやりながらバランスを取ることを楽しんでいる。そういうことがエネルギーになっているんだ。

今回の展覧会ではこれまでのキャリアのさまざまなステージを観ることができるけれど、その度ごとにインスピレーションはどうやって得ているの?

僕自身のラブストーリーがいつもインスピレーションになっているんだ。それと幸せをもたらしてくれる娘にはいつもインスパイアされているよ。今彼女は4歳で、もう「Mr. A」を描けるよ。小さなライバルがいるように感じるよ(笑)。

リスボンにはかなり傑出したストリートアートやグラフィティシーンがあるね。それについてどう思っている?パリと比べてどんな感じ?

ポルトガルのグラフィティシーンはちょっと遅れて始まったんだ。80年代の終わりから90年代の初めの、ここにグラフィティがほとんどまだなかった頃、リスボンで自分が描いていたのを思い出すよ。今じゃ街にはタグやスローアップが溢れているけれど。双方の領域の間にはよき線引きがあるけれど、街はアーティストやストリートアートにとても協力的なんだ。 Os Gêmeos(オス・ゲメオス)はここにペイントのためにやってきたし、Vhils(ウィルス)はリスボンを注目せずにはいられないプロジェクトのマップに加えている。この個展と平行して、僕はポルトガルの伝統的なタイルにインスパイアされて、185.8平米のカラフルなセラミックアートに取り組んでいるんだ。


ストーリーを物語りたい

“僕は今でも長いスパンでタグをすることに専念している人間がグラフィティの最高の書き手だと思っているよ。”

 

グラフィティアーティストの先駆けとして、始めた頃とカルチャーはどう変わってきている?

グラフィティを始めた頃は、何一つ利用できなかった。ラジオではヒップホップは全くかかっていなかったし、グラフィティの本や雑誌もなかった。僕らはクリロンスプレー缶やキャップを手に入れるために自動車修理店や金物屋に行かなければならなかった。写真をニューヨークから持って帰ってきた友達がいて、僕らは何時間もそれを勉強してパリジャンスタイルでそれを再解釈しようとした。Googleでグラフィティアーティストを調べることもできなかったしね。インターネットがなかったんだから。パリで僕らは言語を発明し、それをプロモーションしたんだ。今は何でもアクセスできるようになったし、パッケージになっている。グラフィティがビジネスになっている。 僕らの時代は、気づいてもらうために闘わなければならなかったんだ。メタフォーとしても、物理的にも。

パリジャン・スタイルというのはつまり?

そのレタリングとキャップでそれぞれの街の特徴があった。パリでは僕らはDecap’Fourのようなフレンチオーブンクリーナースプレーのキャップを使っていたんだ。僕らの太めのキャップはニューヨークのそれとは違う。僕らのつくっていったパリジャン・グラフィティ・スタイルは理解しやすくて、読みやすい、それでいてとても手厳しいものだった。Bando(バンド)やOeno(オエノ)、Colorz(カラーズ)といった書き手は本当にクリーンで飾らないアプローチでプッシュして、ハードコアな感じを打ち立てていったんだ。

グラフィティの書き手だった頃で、何かこれといった忘れ難い出来事はある?

それはたくさんあるから、一つというのは難しいね。グラフィティというのは単に一つスローアップを仕掛けるというものではないんだ。「Mr. A」タグを一日に少なくとも10個はペイントしたこともある。もし具合が悪かったら、翌日に2倍ペイントしなければならなかった。20年以上それをやってきたんだ。全パリジャンのメールボックスのマップを持っていて、市内のメールボックスごとにペイントしに行ったことだってある。バスチーユで大きなピースを描いていたときというのが、忘れ難い瞬間だね。僕は逮捕されて、翌日それを描き終えるために戻ったよ。僕は今でも長期的にタグをすることに専念している人間がグラフィティの最高の書き手だと思っているよ。

活動しているさまざまな企画の中で、どの分野でもっと力を入れたい?

もっと映画を撮りたいんだ。いくつかの長編映画を取り組んでいる。これまで自分のキャリアの中で考えたことはなかったんだけどね。クラブをやりたかったから、やった。ホテルをつくりたかったから、つくった。僕はいつも準備なしで企画を進めることにわくわくしてきたんだ。このメンタリティというのはグラフィティから来ているよね。僕はいつも恐れることなくストーリーを物語りたいんだ。

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テキスト
フォトグラファー
Arthur Bray/Hypebeast
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