Talk on the Wild Side: Kosuke Kawamura and Tadanori Yokoo
河村康輔が横尾忠則から学ぶクリエイティブ・マインド

『Hypebeast(ハイプビースト)』と〈UNIQLO(ユニクロ)〉のTシャツブランドである〈UT(ユーティー)〉のオンライン/プリントメディア『UT magazine(ユーティーマガジン)』のコラボ連載企画「Talk on the Wild Side」。この連載では〈UT〉のクリエイティブ・ディレクター 河村康輔をホストに、毎回異なるゲストを招き、創造的な対話を繰り広げていく。記念すべき第1回目は、美術家・横尾忠則さんをゲストに迎える。
〈UT〉のクリエイティブ・ディレクターを務める河村康輔はコラージュアーティストとしても活躍し、現在まで数多くのクリエーターとのコラボレーションを行ってきた。これまでの活動の過程で「会いたい人にはほとんど会ってきた」と語る河村でも、唯一出会うことのなかった憧れの人物が、横尾さんだという。グラフィックデザイナーから画家への転身後も長年にわたって創作活動を続けてきた巨匠に、河村がその秘密を聞いた。
河村 僕は高校生の頃、デザインやアートのことをまだ何も知らない時に、横尾先生の作品を拝見して衝撃を受けました。当時お年玉を貯めて画集『千年王国への旅』(1974年)を購入したのですが、コラージュという手法に強く惹かれ、自分でも試みるようになりました。その体験がコラージュアーティストとしての僕の原点なんです。また、僕がUTのことを意識したのも、2007年に原宿のお店で先生とのコラボTシャツを買ったことがきっかけでした。
横尾 そうですか、それは責任重大だ(笑)。僕がその画集を出したのはデザイナー時代の後期ですね。僕はグラフィックデザイナーとして約25年間活動して、1981年に画家に転向しました。それから40年以上も経っているから、画家としてのキャリアの方が圧倒的に長くなりましたね。
河村 先生は今でもデザインの仕事はされてますよね?
横尾 ときどきね。僕の神戸の美術館(横尾忠則現代美術館)で展覧会をやると、そのポスターを作ったり、あとはミュージシャンのCDジャケットも手掛けたり。最近では、BUCK-TICKの展覧会(「BUCK-TICK展 2025」)のメインヴィジュアルを担当しましたね。そういった仕事が年に1、2本くらいはあります。
河村 それ以外は毎日ずっと絵を描かれているんですか?
横尾 いや、毎日描いてたら死んじゃいますよ(笑)。休みをとりながら作品制作を続けていますね。
河村 先生が作品を制作する際に、グラフィックデザインとアートでは脳の使い方に違いはありますか?
横尾 創造するという点においては同じですが、向き合い方が違います。デザインの仕事は基本的にクライアントがいて、色々な制約や条件がありますよね。特に企業の案件はいかにその商品を宣伝し、売上を上げるかという商業ベースのものが多い。彼らの要望通りにできるデザイナーが重宝されるわけですけど、僕はそれができなかった(笑)。当時の僕はグラフィックデザイン自体をよく理解しようとは思っていなかったこともあって、正当な文法から離れるためにはデザインを知らない方がいいと思っていました。というのも、クライアントの言う通りに広告をデザインしたら、その商品はあまり売れないことが多いんですよ(笑)。商品の魅せ方は、本当はデザイナーの方がよく知っているはずなんです。
河村 確かに。
横尾 だから、当時僕はあまり商業的な企業からの依頼は引き受けませんでした。演劇や映画、音楽などの文化的な事業に携わる仕事を中心に手掛けていましたね。寺山(修司)や唐(十郎)くん、土方巽といった人たちが僕の主なクライアントでした。彼らはクリエイターですから、非常に仕事はやりやすかった。僕のやったことに対して、修正してほしいと言う人はひとりもいませんでしたね。
河村 それは凄いです。
横尾 もしかしたら変な作品だなと思ってたかもしれないけど(笑)。お互いがそれぞれの土壌で仕事をしているから、僕の提示したものをそのまま受け入れてくれたんです。一方で、広告業界のスポンサーってクリエイターじゃないんですよ。単に発注主だから。
河村 納得です。では、先生はその当時から既にアート作品を作るような感覚でグラフィックをデザインされてたんですね。
横尾 言われてみるとそうかもしれないね。
河村 10代の頃、初めて先生の作品を見た時に強烈なエネルギーを感じた理由がわかった気がします。僕は高校を卒業して、専門学校や大学に行かずにアーティストとして活動を始めたのですが、当時先生の自伝を読んでその生き様や考え方に感銘を受けました。先生がいまでも自由に創作を続けている姿に、とても勇気づけられます。
横尾 自由というのは、難しいんですよ。みんな自分の中に欲望やこだわりがありますよね。有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか。そんなことにとらわれていたら、創作どころじゃありませんよ。自分のエゴから自由にならないと、エネルギーを作品に込められない。それらを全て捨てて、純粋に表現したいことを作品に落とし込むのが一番ですね。さっき話に出た当時の演劇や映画、音楽関係の人たちはみんな貧乏でしたから、ギャラが支払われないことも多かった。だから僕も稼ごうと思っても稼げない(笑)。欲望の持ちようがないわけですよ。
河村 凄い話だ(笑)。だからこそ自由な作品が生まれたんですね。
横尾 みんな根底的にはお金を稼ぎたい、もっと有名になりたいという思いもあったかもしれないけど、それに執着していなかったと思います。とにかくその時にやりたいことに熱中するような人たちばかりでしたね。
河村 もう本当に表現することが第一だったってことですよね。
横尾 僕は今の若い人たちと交流がないからわからないですけど、僕たちの時代はまだ社会的なビジョンが何もなかったので、なんでもありだったんですよ。
河村 社会的な制約が厳しくなかったってことですか?
横尾 多少はあったかもしれませんが、そういった制約は自由な表現者によって全部崩されて、アーティストが作る新たな制度のようなものが生まれたんじゃないかな。
河村 アーティストにとってはいい時代ですね、本当に。
横尾 いい時代だけど、もう一歩間違えると生きるか死ぬかみたいな局面もあったわけですから。
河村 確かに戦後の復興を経て、60年代ごろは社会的にも文化的にも大きな転換期ですよね。僕は1979年生まれなのでその時代のことは後追いですが、やはり60年代のサイケデリックカルチャーの影響下にあるアートやグラフィック、音楽にはとても感化されました。
横尾 当時の西洋と日本のカルチャーには大きな違いがあるんです。アメリカやヨーロッパのサイケデリックカルチャーは、基本的にドラッグの影響を受けています。日本ではその部分が抜けているので、表層的な表現がほとんどでした。芸術というのは実際の体験から生まれるものですから。
河村 先生は当時海外には行かれたんですか?
横尾 僕は1967年にニューヨークに行きました。67年というのは最高の年なんですよ。ビートルズ(The Beatles)が『サージェント・ペパーズ(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』と『マジカル・ミステリー・ツアー(Magical Mystery Tour)』を出した年ですね。
河村 うわ、いい年ですね!
横尾 そんな年にニューヨークに行き、初めてロックを生で体験したんです。ライブハウスでクリーム(Cream)を観ました。
河村 え、クリームを生で観てるんですか!?
横尾 現地でもクリームなんて全然有名ではなかったのですが、ロンドンからビートルズより凄いバンドが来るという噂を聞いて、観に行ってみたんです。エリック・クラプトン(Eric Clapton)もジンジャー・ベイカー(Ginger Baker)もいましたよ。もちろん、当時は彼らの名前は知りませんでしたが。クラプトンはライブ中に突然ギターを置いて、会場の外へ出ていってしまいました。どうしたのかなと思ったら、トイレに行っていたらしく(笑)、戻ってきて何事もなかったように演奏を再開してましたね。
河村 貴重なシーンを目撃しましたね(笑)観客はどれくらいいたんですか?
横尾 2、30人くらい。ライブ会場には椅子がなく、床にマットが敷かれていて、その上に座ってみんな演奏を聴いているんです。当時はベトナム戦争の時代で、兵役を逃れた若者たちが集まっていました。
河村 戦争に行かなかったヒッピーたちが集まってたってことですよね。
横尾 そうですね。僕はその翌年にサンフランシスコのヘイトアシュベリー地区に行ったのですが、既にヒッピーカルチャーは完全に廃れてましたね。街を歩くとその雰囲気は多少残っていましたが。その前年にジョージ・ハリスン(George Harrison)がフラワーチルドレンをゾロゾロ連れて、街を闊歩してたらしいんですけど、僕はニューヨークにいたのでそのような光景は見れませんでした。
河村 いずれにせよ貴重な体験ですね…。ところで、先生は当時ニューヨークには仕事で行かれたのですか?
横尾 いや、ある雑誌から取材責めに遭っていたので、それに疲弊して、ちょっと日本を脱出しようと。当初はニューヨークとヨーロッパに10日間ずつ滞在する計画で、飛行機のチケットを取っていたんです。でもニューヨークに着いたら気が変わり、チケットを破り捨てて、そのまま四カ月滞在しました。
河村 いやいやいや、もうパンク過ぎる(笑)僕の持論なんですが、日本のパンクの元祖は横尾先生なんじゃないかと思っています。
横尾 そんなことないけどね。今思い出したけど、初めてデヴィッド・ボウイ(David Bowie)に会った時に、彼は僕の作品集を持っていて。
河村 あ、ボウイって先生の大ファンでしたよね。
横尾 それでボウイが「俺は初めてパンクに出会った」と言うんですよ。彼に「どこで出会ったんですか?」と聞くと、「この本の中で出会った」と。
河村 おお。僕も以前からそう思ってました。
横尾 でも僕はパンクってそんなに知らないの。当時パンクといわれるようなロックバンドのライブはニューヨークやベルリンで観たけど、曲が1分とか2分しかない印象だね。ばーっと出てきて、すぐ終わっちゃう(笑)。「これがパンクか」っていう。
河村 観てるのが凄い(笑)。パンクムーブメントが起こる前には、ストゥージズ(The Stooges)やヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)みたいなバンドもいましたけど。
横尾 でもその中心にね、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)がいたんですよ。ウォーホルはアーティストでしょ? 当時のアメリカではアートとデザインの間に明確な境界線があって、アーティストとデザイナーの交流はゼロでした。
河村 そうなんですね。
横尾 日本ではアーティストもデザイナーも色々な人たちと交流しますけど、アメリカはもう一切ないわけです。アーティストはデザイナーを馬鹿にしてました。ところが、ウォーホルは僕と同じで、元々はデザイナーだった。彼はアーティストに転向するために、自分の過去を隠してたんです。以前は商業デザイナーやイラストレーターだったことを、ウォーホルは一切言いませんでした。もし彼がデザイナーやイラストレーターのままシルクスクリーンの作品を作ったとしたら、アートとみなされていません。ウォーホルはアーティストとしてあの作品を作ったから、今もアートとして認められてるわけ。でもね、僕からすると彼の作品はアートというより、実際はデザインですよ。
河村 言われてみると確かにそうですね。
横尾 彼はデザイナーだったのに「デザインなんか知らんよ」って顔してアートの世界に入り込んだんだから、相当したたかでないとニューヨークでは成功できないね。
河村 なるほど。では先生は67年のニューヨークでウォーホルに会ってるんですね?
横尾 渡米する以前、僕のポスターをコレクションしているというアメリカ人の作家と日本で知己を得ました。その作家を訪ねてニューヨークに行ったんですが、実は彼はアンディ・ウォーホルの友人だったんです。僕が訪ねた前日にウォーホルが彼の家に来ていて、僕の作品に非常に興味を示していたと言われました。それでその日の夜に一緒にファクトリーに行くことになったんです。
河村 え、ニューヨークに着くなり、いきなりウォーホルに会ったんですか! その時の写真は残ってないですよね?
横尾 そもそもカメラは持って行かなかったですからね。写真として残すより、実際に見たり聞いたりした体験の方が記憶に残りますから。カメラ持っていると、自分の中にジャーナリスティックな、どこか冷めたような視点が生まれてしまうので、そういった機会に写真は撮らないようにしています。でも、ウォーホルに会ったことを第三者に説明するときに、証拠がないわけだ(笑)
河村 いや、おっしゃる通り実際の体験の方が重要ですよね。
横尾 初めてニューヨークに行って一週間もしないうちにウォーホルと出会って、その後はジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)、トム・ウェッセルマン(Tom Wesselmann)といったアメリカのトップアーティストたちと立て続けに会いました。彼らに会いたいと思ってアメリカに行ったわけではないのに、不思議と一気に出会えてしまったんです。
河村 それは完全に導かれてますね…。先ほどもお伝えしましたが、以前先生の自伝を読んで、人生全てが見えない力に導かれているなと感じたんです。
横尾 誰でも運命に導かれることがあるんですよ。あなたもそう感じることがあるでしょう? 僕にとってあの時必要だったのは、彼らのようなアーティストたちとの出会いだったんです。
河村 はい。所謂グラフィックデザイナーは世界中に数多く存在していますが、やはり横尾先生は別格だということを昔から感じていて。今日のお話を聞いて、その理由が理解できた気がします。ところで、僕が最初に先生のことを知ったのは何かの雑誌でたまたま見た『腰巻お仙』(1966年)のポスターがきっかけだったんです。デザインのデの字も知らない時に見て、すごく衝撃受けて。もうただただ純粋に、かっこいいと思いました。
横尾 『腰巻お仙』のポスターは、いまだに僕自身も超えられないと感じています。あの時まぐれでポンとできちゃた。
河村 あのポスター以上のレベルの美術作品は、世界的にも無いと思います。
横尾 1972年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で僕の個展を開催したんですが、その年にミュージアムショップで最も売れたポストカードが(アンリ・ド・トゥールーズ=)ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)の作品、2番目が『腰巻お仙』だったそうです。
河村 やはりそれぐらい強いんですね、あの作品は。
横尾 だから『腰巻お仙』が名刺代わりになっちゃって、今でもあれを超えられないような動きをさせられてる気がする。自分の作品に止められてるというか、もうこれ以上のものは作るなみたいな。僕も作る気ないしさ、あんなのもうできないよ(笑)。
河村 僕も『腰巻お仙』に人生を決定づけられたようなものです(笑)。あの作品にお前はこう動けっていう指令を受けて、お釈迦様の手の中で転がされてるような。『腰巻お仙』の衝撃と、その後読んだ先生の自伝に感化されて、僕は自分をコントロールするのをやめようと思いました。
横尾 コントロールなんかしない方がいいです。コントロールするということは、自分の中に調和を作っていくことですよね。でもアートは不調和でないと面白くないわけ。だからアーティストにとって、その姿勢はいいことだと思いますよ。
河村 よかった。今日先生にお会いできたのも、誰かが用意してくれた流れに身を任せて、これまで生きてきた結果だと思っています。僕は今UTのクリエイティブディレクターを務めていますが、初めにお伝えした通り、UTを知ったのは横尾先生の作品『眼鏡と帽子のある風景』(1965年)がプリントされたTシャツがきっかけでした。実際に購入して、よく着用していたんですよ。
横尾 『眼鏡と帽子のある風景』は『腰巻お仙』よりずっと前の作品で、僕が29歳くらいの時に描いたものです。当時三島由紀夫さんがこの絵を気に入り、欲しいと言ってくれました。今でも原画は三島さんのご子息が所蔵されてますよ。
河村 そうなんですね。ところで、先生は2005年にユニクロ・クリエイティブアワードの審査員をされていますよね? 先生にとって、Tシャツのデザインの良し悪しを判断する基準があれば教えてください。
横尾 その時の気分です(笑)。毎日体調や気分は変わりますよね? それが人間の生理です。もしかすると次の日は別の作品を選ぶかもしれない。それでいいんですよ。
河村 面白いですね。つまり、その時の直感に頼るということですよね? それは全てのことに当てはまるのかもしれませんね。
横尾 あまり考えない方がいいんです。僕の作品のモチーフにもなっている『Y字路』を例に挙げると、右に進むか左に進むかを決めるとしますよね。右に行くと損する、左に行くと得をすると事前に知らされていた場合、大抵の人は左(得)の方を選ぶんですよ。でも、得の行き着く先は損かもしれない。逆に、損の行き着く先は得かもしれません。右を選んだ方が、結果として得だったらどうしますか?
河村 深いですね…。
横尾 分別がある人は頭で考えて、物事の良し悪しを全て損得や善悪にわけて判断します。でもそれではダメなんです。一方で、無分別というのはそれらから離れた、いわば気分ですから。アートやデザインは無分別でいいんですよ。あんまり考えるとロクな作品ができない。計算された作品は、スポンサーが喜ぶだけですよ(笑)。
河村 計算では人があっと驚くような作品は作れないってことですよね。
横尾 お金欲しさにスポンサーが喜ぶものばかり作っていると、そのうちデザイナーはダメになってしまいます。
河村 本当に損得じゃなく、自分の表現をちゃんと確立しているアーティストやデザイナーの作品をみると尊敬しますし、刺激を受けますね。
横尾 デザイン理論も勉強しない方がいい。あんなもの勉強すると賢くなるだけですから。
河村 逆に賢くならない方がいいっていう。
横尾 僕は『アホになる修行』という本を出しているけど、デザイナーはアホにならないとダメだね(笑)。でも中途半端はいけませんよ。それでは単なる馬鹿です。アホは神様と紙一重ですから。そこまでアホになってちょうだいよ。
河村 はい、これからはアホを突き詰めていきます(笑)。また服の話に戻るのですが、先生はこれまでさまざまなファッションブランドとコラボレーションされてますよね。そういったブランドや企業のためのデザインをする時に、特に大切にしていることはありますか?
横尾 僕の今の作品は別として、基本的に過去の作品から好きなものを使ってもらうことが多いから、あまり意識していないかもしれないですね。
河村 では1から洋服用にグラフィックをデザインすることはほとんどない?
横尾 最近だとデュラン・デュラン(Duran Duran)のTシャツはそのためにグラフィックを作りました。それ以降はあまりやってないね。
河村 それは大物ですね(笑)。では、ご自身のファッションのこだわりはありますか?今日もですけど、ここ数年メディアで先生を拝見すると、いつも全身クロムハーツ(Chrome Hearts)のアイテムを着用されてるようですが…。
横尾 社長と友達なんです。クロムハーツの商品は買うと高いでしょ? それで絵を描いてあげると、どんどん新作が送られてくるんですよ(笑)。
河村 それは羨ましい(笑)。海外の著名人に先生のファンは多いですよね。僕の知ってる限りだと、KAWS(カウズ)は先生の作品の相当なコレクターです。
横尾 何年か前に僕のコラージュ作品を集めた書籍(『横尾忠則コラージュ:1972-2012』、2012年)を出したんですが、あの本に掲載されている作品は全てKAWSが所有しています。おそらく250点ぐらい持ってるんじゃないかな。KAWSが不思議なのは、それだけ僕の作品を持っていても、彼自身の作品からは全くその影響が感じられないんですよ。
河村 確かに。
横尾 僕の作風を直接自分の作品に反映してしまったら、アーティストとしてそれで終わりだということを理解しているんでしょうね。僕の作品を通して、KAWS独特の、若者に人気のある絵を描けちゃうわけだから、これもひとつの才能だなと思って。そこは尊敬してるんです。でも、ニューヨークで個展を行うと、KAWSがごそっと買ってしまって、他の人の手に渡らないんですよ。だから今は彼のために絵を描いているみたいな状況になってしまってます(笑)。
河村 もう個人的に描いてるみたいな(笑)。やはり先生の作品はもっと色々な人に所有してほしいですけど。
横尾 そうですね。KAWSは僕だけじゃなくて他の作家の作品も集めてるみたいだから、いずれ美術館でもつくるつもりなのかもしれない。
河村 そうかもしれないですね。ほとんどの人にとって作品の所有は難しいかもしれませんが、Tシャツのようなファッションアイテムであれば誰もが気軽に買えますし、多くの人の目に触れる機会も増えると思います。ぜひUTでコラボレーションをお願いします(笑)。最後に、今後の予定を教えていただけますか?
横尾 4月から世田谷美術館で「連画の河」という個展をやります。その展覧会に出す作品をやっと描き上げたところです。
河村 何点くらい展示されるんですか?
横尾 150号を中心に、100号や10号のものまで含めると約60点。全てこの1年ほどで描いた新作です。
河村 1年でその量は凄い。創作意欲は全く衰えないですね。
横尾 目の前のキャンバスと向き合って、これをどういう風にするかという戦いですよ。僕が絵を描いてるのが、キャンバスが僕に絵を描かせてるのか分からないけども、そういったことの繰り返しです。そこに生活というか、生きることへの充足感があるから、他に欲はあまりないんですよ。
河村 やはりずっと未来に生きていらっしゃるんですね。これからもまだまだ新作を描き続けていただきたいです。4月の展覧会、楽しみにしています!
横尾忠則(ヨコオ・タダノリ)
1936年兵庫県生まれ。現代美術家。72年ニューヨーク近代美術館での個展を皮切りに、世界各国の美術館で個展を開催。81年以降画家として様々な手法、様式を駆使した作品を世に送り続けている。2000年ニューヨークアートディレクターズクラブ殿堂入り。2015年 高松宮殿下記念世界文化賞受賞。2023年文化功労者、日本芸術院会員。2025年4月26日から、世田谷美術館にて「横尾忠則 連画の河」展を開催予定。
【展覧会情報】
横尾忠則 連画の河
開催期間:2025年4月26日(土)〜6月22日(日)
開館時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)
休館日:毎週月曜日
*4月28日(月)、5月5日(月・祝)は開館。5月7日(水)は休館
会場:世田谷美術館 1階展示室
住所:東京都世田谷区砧公園1-2
観覧料:一般 1,400(1,200)円、65歳以上 1,200(1,000)円、大高生 800(600)円、中小生 500(300)円
TEL:03-3415-6011
公式サイト