“ノー・ウェイヴ”のパイオニア、ジェームス・チャンスが死去
享年71
1970年代後半、米ニューヨークの“ノー・ウェイヴ(NO WAVE)”シーンから頭角を現し、“パンク・ファンク”と称されるジャンルを体現したシンガー/サックス奏者/作曲家 ジェームス・チャンス(James Chance)が、ニューヨークのテレンス・カーディナル・クック・ヘルス・ケア・センターで死去したと報じられた。死因は明らかにされてないものの、彼の健康状態は数年前から悪化していたという。彼の最後のライブパフォーマンスは、2019年3月にオランダのユトレヒトで行われた。
ジェームス・チャンスことジェームス・アラン・ジークフリート(James Alan Siegfried)は、1953年4月20日にウィスコンシン州ミルウォーキーで誕生。カトリック系の小学校で修道女の指導のもとピアノを始め、18歳でアルトサックスを始める。ミシガン州立大学とミルウォーキーのウィスコンシン音楽院に通ったものの、学位は取得していないという。この間、ジャズ志向のジェイムズ・ジークフリード・クインテット(James Siegfried Quintet)と、ストゥージズの影響を受けたデス(Death)という2つのバンドを結成。
バンド解散後の1975年にニューヨークに移り、ジェームス・チャンスという名前を使い始める。フレイミング・ユース(Flaming Youth)というカルテットを結成した後、シンガー/ギタリスト/作詞家のリディア・ランチ(Lydia Lunch)を擁する”ノー・ウェイヴ”の始祖、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス(Teenage Jesus And The Jerks)に参加(*このラインナップによる録音は、1979年にZEレコードからEP『Pre Teenage Jesus And The Jerks』としてリリースされた)。1977年、サックス奏者のデイヴィッド・マレイ(David Murray)に師事したジェームスは、ギタリストのジョディ・ハリス(Jody Harris)とパット・プレイス(Pat Place)、ベーシストのジョージ・スコット3世(George Scott III)、ドラマーのドン・クリスチャンセン(Don Christiansen)、キーボード奏者兼ヴォーカリストのアデル・ベルテイ(Adele Bertei)とともに、コントーションズ(the Contortions)を結成。1978年には、ブライアン・イーノ(Brian Eno)プロデュースによるコンピレーションアルバム『NO NEW YORK』に参加した。1979年にデビュー・アルバム『Buy』、翌年にはジェームス・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス名義のアルバム『Off White』をリリースし、この2枚が彼の代表作となる。
『Hypebeast』編集部一同、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。